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ヒコ麻呂のまち歩きツアー 二宮町神主(令和5年1月31日)
「まち歩きマップ」作成までの取り組みを紹介します。
ヒコ麻呂のまち歩きツアー 二宮町神主
みなさんは柿本人麻呂をご存じだと思いますが、実は柿本人麻呂の事実を知る史料は「万葉集」しかありません。
「万葉集」では柿本人麻呂が「石見のや~」や「石見の海~」と詠んでいることから、石見に関係があったことがわかります。
そのため、昔から江津やその近辺では柿本人麻呂が称えられ、信仰が盛んになりました。
信仰による言い伝えや資料は、そこに柿本人麻呂が実際にいたかの事実ではありませんが、万葉に馳せる想いを色々な人に知ってもらう良い取組みだと思います。
今回は、そのような柿本人麻呂信仰により建てられたモニュメントなどを中心に二宮町神主を歩きたいと思います。
今回だけヨシヒコではなく、「ヒコ麻呂」として、 まち歩きをして市民の皆さんにその町のいいところとウォーキングの良さと「正しい柿本人麻呂」について伝えたい。
目指せ1万歩のまち歩き!
スタート
スタートは、二宮地域コミュニティ交流センターから始まります。
ここには「依羅娘子生誕伝承の里」という石碑が平成10年(1998年)3月29日に建てられました。
設置場所が地域を代表する施設の敷地なので地域を代表する石碑となっています。
このような石碑などが建っている場所は「ゆかりの地」と呼ばれています。「ゆかりの地」の場所は公共用地だったり、見張らしが良い場所だったりと、みんなに知って訪れてもらうために、作った人の隠れた努力があります。
石碑に出てくる「依羅娘子」とは、柿本人麻呂の妻とされる歌人です。
「よさみのおとめ」とか「よさみのいらつめ」と呼ばれています。
柿本人麻呂と同様に事実を知る史料は「万葉集」しかありません。
グリーンラインを西へ
スタート地点から那賀東部広域農道(通称:グリーンライン)を西へ向かいます。
正面には島根職業能力開発短期大学ポリテクカレッジ島根が見えます。
ここの生徒の作成する卒業作品は地域に密着したものや、デザイン、アイディアなど秀逸なものが多く、作品発表を毎年楽しみにしています。
恵良の里の入口
「人麻呂ゆかりの地(恵良の里・君寺の歌碑)」という看板を見つけました。
「恵良」は「えら」と読みます。
この先を左折すると飯田地区の集落があります。
万葉道の標柱
「柿本人麻呂万葉道」と建てられた標柱があります。
この標柱は江津市観光協会が建てたものだそうです。
この「万葉道」は「ゆかりの地」を結んだ道だったり、地域や研究者などで推定した道だと思いますが、「万葉道」という名称の道路は奈良時代の資料などからは見当たりません。
道に関するトピックとして、文献によると奈良時代には島根県西部に「古代山陰道」があったとされていますが、詳細な場所がどこかはわかっておらず、特に島根県西部では発掘調査などでも見つかっていません。
市道敬川飯田線
那賀東部広域農道から市道飯田川端線を経由して、市道敬川飯田線を西へ向かいます。
このあたりは飯田地区と呼ばれ、比較的多くの遺跡がある場所です。
圃場整備記念石碑
市道敬川飯田線から市道八幡宮線に入ると、左側に「飯田地区圃場整備竣功記念」の石碑がありました。
飯田地区にはここ以外にもたくさんの田園風景が残っています。
飯田八幡宮
市道八幡宮線と市道平岡線を経由しながら、飯田八幡宮に到着しました。
飯田八幡宮の創建は不明ですが、口碑では貞観年間(859~871年)に京都の石清水八幡宮から分幣されたと伝わっています。
この場所へは江戸時代中期に違う場所から移ってきたとされています。
最近、狛犬が新しくなり、向かって右にあったお気に入りの子持ち狛犬が別の場所に移動されていました。
ちなみに前にあった狛犬は「ネロ」と「パトラッシュ」と命名していました。新しい狛犬はまだ命名していません。(冗談です。)
江津道路建設による発掘された遺跡
恵良遺跡
飯田八幡宮のすぐ近くに恵良遺跡があります。
現在は江津道路の敷地内になっていますが、柱穴などの遺構群や須恵器、土師器、中世土器などが見つかりました。
飯田C遺跡
市道八幡宮線から飯田幹線農道を歩くと、飯田C遺跡があります。
この遺跡も江津道路の敷地内にあり、弥生土器、須恵器、土師器などが見つかりました。
スイトコと呼ばれる場所
ここには、「柿本人麻呂終焉伝承地」と書かれた案内板と「スイトコ人麿終焉伝承之地」と刻まれた石柱と二宮まちづくり協議会が建てた看板がありました。
スイトコが気になるため、案内板に従ってスイトコの場所へ進むことにしました。
このゆかりの地は完全に民家の敷地内にありますが、所有者の意向で誰でも自由に入ってスイトコという場所を見ることができるようです。
「柿本人麻呂が48歳の時に熱病にかかって、熱が発散しやすいように透床を作った。それをスイトコという」という説があるそうです。
透床という単語を調べましたが、わかりませんでした。
東京スカイツリーとかにあるガラス床を思い出します。
スイトコの石
中に入るとスイトコの石がありました。
説によると、「熱病の熱を発散するために作られた」そうなので、ここに身体を当てて熱を下げると推定できます。
ヒコ麻呂は、まだ20歳代で48歳には程遠いですが、その説を実践しました。
雪がチラつく日だったため、最初から身体は冷たく、実践した結果としては得られるものはありませんでした。
この件については日を改めたいと思います。
ただし、ヒコ麻呂説として「スイトコで身体の熱を吸い取っとこ…。すいとっとこ。スイトットコ。スイトコ…。」という説を提唱します。
でも、この石をよく見ると、どこかから持ってきた古墳とか石室の天井にも見える…。ここら辺は古墳多いし。
スイトコの発掘調査
スイトコと同じ敷地で発掘調査の試掘を行っていました。
この土地の所有者が「皆さんに来てもらいたい」という思いで敷地内に駐車場を整備する予定です。
それを受けた教育委員会の事前の試掘でした。
この時は試掘の途中でしたが、奈良時代くらいの遺物が出てきたみたいです。
帰ってから、スイトコを調べました。
明治22年切図によるとスイトコは「スイ床」と書かれてありました。
試掘結果から付近は田んぼ跡地もしくは多くが湿地跡でした。
もしかしたら、スイ床は水床が語源かもしれません。
紀三井寺跡
君寺と書かれた看板がありました。
この上の建物が君寺と関係してそうです。
君寺はこの周辺の中世の時代ことが書かれた飯田家文書(市指定文化財)の文中に出てくる寺院です。
この場所は明治41年まで紀三井寺が建っていましたが火災で焼失したそうなので、さらに昔にこの場所に君寺があったと推定し看板が立てられてと思われます。
君寺と柿本人麻呂が関係している資料はありません。
紀三井寺跡の宝篋印塔と五輪塔
君寺の敷地内に宝篋印塔と五輪塔が混ざって建っていました。
これらは、14世紀ころのこの辺りの有力者の墓と考えられます。
有力者はこの時代からこの周辺を治める都野氏などかもしれません。
飯田家文書も同じ時代なので関係がありそうです。
現在のところは、柿本人麻呂の伝承に比べると、こちらの方が貴重で重要な史実になります。
紀三井寺跡の歌碑
君寺敷地内に依羅娘子が読んだ歌と柿本人麻呂を研究されていた学者に関する歌碑がありました。
またその横には「依羅娘子誕生住家跡」と書かれた標柱がありました。ここはとても見晴らしが良い場所です。
1300年くらい前の出来事がわかる人はいませんが、ヒコ麻呂説として「柿本人麻呂イケメン説」を提唱しているので、江津のどこかに依羅娘子みたいな人がいてもいいんじゃないか。とは思います。
恵良について
君寺の隣に二宮探宝会が建てた看板がありました。
その横には「仮称恵良驛跡」と刻まれた石柱と「恵良万葉故地依羅娘子(依羅媛)伝承地」と刻まれた石碑が建っています。
この場所も見晴らしが良いこともあり「ゆかりの地」としては立地条件は良さそうです。
なお、この付近に「ヱラ前」「ヱラ畑」という字名が昔に残っていたことが切図を見てわかりました。
「エラ」単独の字名はありませんでしたし、「恵良」という文字も見当たりませんでした。
なので、どなたかが「ヱラ前があるならヱラがあるだろう」と考え、縁起の良さそうな「恵良」という文字をつけて現在に定着して、さらに「里」をつけて範囲を広げていると推定できます。
「ヱラ前」や「ヱラ畑」が万葉集の歌人の依羅娘子と関係している資料はありません。
「恵良媛」はよくわからないので、知っている人がいたら教えてほしい。
帰り道
郡庁古井戸跡
「郡庁古井戸跡」の案内板がありました。
この周辺に郡庁があった事実は確認できませんが、「郡庁があったんではないか」と研究している人がいらっしゃるようです。
郡庁と井戸がどのように結びつくか関係性はわかりません。
この近くで住民から柿本人麻呂の伝承について伺う機会がありました。
柿本人麻呂が地域でどのように伝わっているかを聞ける良い機会でした。
また、「この付近の道路が古代山陰道だ」と説明を受けました。
古代山陰道は見つかっていないため、「古代山陰道と自分が推定している。」ことだと思います。
ちなみに近世山陰道はこの近くに道があります。
荒人祠
市道恵良線から市道高竹線を通ると「荒人祠」の案内板がありました。
荒人祠には「ツヌガアラヒト」が祀られているそうです。
漢字で書くと「都怒我阿羅斯等」で、明治初期のころに作られた木像の神体は昭和63年ごろに盗難にあい、現在は平成6年に作られた焼き物の神体です。
井戸公碑
市道高竹線を東側へ進み、田園地帯を抜けると井戸公碑がありました。
この場所は住民のみなさんの目につく場所にあります。
市道敬川飯田線をそのまま進む
市道高竹線から市道敬川飯田線に入り、恵良川沿いを通ります。
恵良の里を抜け、ゴールが近づいてきました。
江戸時代に作られた石見八重葎という本の中では、この近辺の項目に柿本人麻呂や依羅娘子の文字が出てくるため、江戸時代から柿本人麻呂に対する信仰があったものと思われます。
市道平岡線
市道敬川飯田線をまっすぐ進むと、右に太平寺に続く市道平岡線があります。
舗装したばかりの道はテンションが爆上がりでした。
テンション上がった状態で「市道太平寺線がきれいになっている!」と言ってしまったんですが、実は市道平岡線だったということが後でわかりました。
ちなみに太平寺には清水巌作の欄間があるそうです。
県道皆井田江津線
市道敬川飯田線から県道皆井田江津線に入るとゴールは間近です。
この間、柿本人麻呂ゆかりの街である益田で柿本人麻呂のイベントがあったので、江津市ゆるキャラの「人麻呂くん」と「よさみ姫ちゃん」を連れて参加したい。と主催者にお願いしたところ、丁重にお断りされました。
涙が出るくらいせつなかった…。石見相聞歌くらいせつない…。
ゴール
二宮地域コミュニティ交流センターへ到着しました。
今回は約6,000歩でした。ウォーキングしながら地域も学べるのは素晴らしい。
ゴール後にセンターの職員から万葉の話を聞いたところ、「万葉はロマンの世界だからね!」と深い話を聞けました。
地域の人の「ゆかりの地」作りも盛り上げてほしいです。
柿本人麻呂の歌に出てくる「つのさはふ~」や「角の浦廻~」が、その歌から約200年後の平安時代に作られた和名類聚抄の中に出てくる那賀郡の「都農郷」で間違いないだろう、という説があります。
このことは多くの研究者の意見として共通しているため、江津市は「柿本人麻呂が万葉集で歌った場所」で現在に至るまで信仰があることがわかりました。
今度から「柿本人麻呂が歌った場所に住んでる。」と全国に言いふらします。
次は「柿本人麻呂が都へ帰る設定」になりきって江津の西から江の川まで歩きたいと思います。そしてゴールで「靡けこの山!」と言いたい。
目指せ10,000歩!
二宮町神主まち歩きマップ(約6,000歩)