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ヨシヒコの江津まち歩きツアー 桜江町川越(令和5年7月31日)
まち歩きマップ」作成までの取り組みを紹介します。
ヨシヒコの江津まち歩きツアー 桜江町川越
まち歩きの企画を2ヶ月ほど休んだら、「楽しみにしています」といろんな人から反響がありましたので、復活しました。暑い中にまちを歩くのは大変ですが、まちにある色々なものを紹介したいと思います。
最近は山歩きが続いたので、今回は久しぶりにまち歩きです。桜江町川越で歩きます。
川越という地名は、川を越えると書く訳ですから、住んでる地域の対岸の人からの発信の地名です。川越の人の川越えは川越ではなくなるので複雑な気分です。
目指せ、1万歩のまち歩き!
スタート
スタートは桜江町川越の防災拠点施設である川越地区コミュニティ交流センターから始まります。
本日は気温が上がると予想していたため、タオルと飲み物を準備しましたが、このあたりは山間のため、雨が降りそうでした。
渡田地区
渡地区と田津地区の間にあるから渡田地区だそうです。
川越地区体育館
スタート地点から、市道柿林線を歩いて川越地区体育館に来ました。この体育館は昭和62年に建設された地域のスポーツ振興施設です。平成10年には施設の一部が改修され川越診療所も開設されています。
諏訪神社
県道日貫川本線から市道川戸渡田1号線を経由して市道諏訪神社線を上ると諏訪神社につきました。諏訪神社は寛文10年(1670)に再建されたと棟札に書かれてあるそうなので、その前には既にあったことになります。古い神社だということもわかります。また諏訪信仰には狩猟儀礼もあることから、このあたりでもそのような儀礼が昔はあったのかな。と想像してしまいます。
川越小学校跡地の石碑
市道諏訪神社線と市道川戸渡田1号線を戻り県道日貫川本線から渡田のまちを1周すると旧川越小学校の入り口付近に跡地を称えるための校歌が刻まれた石碑がありました。この学校は、私の母親が卒業した母校です。久しぶりに会った母から「あんたの係長(上司)はあんたより、若いんかね?」と自分の息子の年齢を忘れたような、見た目だけで判断された言葉をもらいました。まだ20代です。
渡田地区から渡地区へ
渡田地区から県道日貫川本線を歩き、渡地区に向かいます。仮堤防の横の仮設道を抜けて進みます。
仮設道を過ぎて県道日貫川本線を通ると、JR三江線の跡地があります。線路が途中で途切れている場所はなかなか見ることができません。
JR三江線の石見川越駅の駅前に到着しました。駅は既に撤去されています。駅の奥に郵便局が見えます。赤いポロシャツの人がウロウロしているので、怪しい人に見られました。
以前、「市役所の職員と名乗る詐欺」に間違われたことがあります。見た目は怪しいかもしれませんが本物です。
郵便局を通り過ぎると、渡地区まで直線が続きます。
最近よくあることですが、来客で上司と名刺を持って名刺交換の準備をしていると、相手の方は上司と私の交互に顔をじっくり見て、必ず先に私から名刺を交換してくれます。大変ありがたいですが、地味に心が傷つきます。(涙)
渡地区
渡八幡宮
渡地区に入りました。雨足が強くなってきました。
どこまでが渡田地区でどこからが渡地区かわかりませんが、JR三江線の路跡を過ぎると渡八幡宮があり、この先から集落が続くので、この辺りが渡地区の始まりだと思います。
正覚寺
八幡宮から県道日貫川本線を進むと正覚寺があります。高くて長い石垣は、この辺りの水害に備えたものだと思われます。
正覚寺は弘長年間の創建と伝わっていて、初めは阿弥陀堂と言っていたのを弘安2年(1279)に正覚寺と改称したそうです。
8月には施餓鬼という茄子の煮しめや切昆布などをふるまう行事があるようです。また、六地蔵も祀られています。
浄蓮寺
正覚寺の隣には浄蓮寺があります。浄蓮寺は寛永・正保の頃に大森から移ってきたとされています。境内地の梵鐘と鐘楼が目を惹きます。
渡会館
渡地区の中心の方には渡会館があります。渡会館の入り口には昭和47年の時の洪水により浸水した高さの線(向かって右)と平成30年の時の洪水により浸水した高さの線(向かって左)の表示看板があり、洪水の凄さが伝わってきます。
渡会館との続きの建物に、少し変わった建物を見つけました。都野津町の旧都野津会館(国の登録有形文化財)や、桜江町市山の服部商店(近代建築遺産の本に掲載)に似ています。調べたところ、この建物は昭和4年に川越郵便局として建てられ、中国電力川越散宿所になり、現在は渡会館として使用されている木造2階の瓦葺、外観モルタル仕上げの建物です。この会館前には道路元標もあるらしいですが、見過ごしてしまいました。
渡地区の中心部を先に進みます。
上司との話になりますが、以前に上司と私でクレーム(ありがたいご助言)の対応をしていた時のエピソードですが、相手の方が、上司と私を見比べて、私の方が上席だと判断して、私に対してクレームを延々と伝えてきました。その横で上司がクレーム相手に相槌と返事で対応をしていますが、相手は一向にその上司には目もくれず、上席だと思っている私に説明されました。
相手からすれば、何も返事をしない毅然と堂々とした上司だと思ったに違いないですが、切ないです。
川越陸閘門
県道日貫川本線が堤防の方に曲がりますが、その道をまっすぐ進むと川越陸閘門があります。陸閘門は三江線と江の川が関連する閘門で、江の川には7つあるらしいです。陸閘門は調べたらその陸閘門によって「りくこうもん」と「りっこうもん」の呼び名があるみたいです。川越陸閘門の呼び名が、どちらかよくわかりませんでした。
帰り道
陸閘門から引き返して、県道日貫川本線を堤防の方に進みます。向こう側には、桜江町坂本の山間が見えます。ここから折り返して、ゴールを目指します。
川越簡易水道浄水処理場
堤防の手前まで移動すると、川越簡易水道浄水処理場があります。ここは重要な施設で平成30年の時には浸水で浸かってしまい、周辺の水道が使用できなくなりました。
川越地区農業集落排水処理施設
堤防の下の農道を渡田地区へ戻るように進むと、川越地区農業集落排水処理施設があります。この施設は平成18年に建てられました。石州瓦がとても綺麗です。
渡り村の江の川堤防工事
農道を進みます。その先に堤防に上がる道があります。
このあたりの堤防はもともと江の川の度重なる氾濫に頭を悩ませていた渡り村の人たちによって明治5年に作られました。その後、数回の大規模な改修工事を行い、今の堤防になっています。
河川管理道
川越第4樋門
堤防に上がりました。ここは江の川の河川管理道になっています。上流側に川越第4樋門があります。川越地区には樋門が5つあり、下流から数字の番号か付番されています。私のオススメの樋門は、このさらに上流にある川越第5樋門です。その樋門は水位による自然開閉ができるフラップゲートを採用しており、操作員が不要な樋門です。
神変大菩薩像
河川管理道を下流へ向かうと、江の川の対面の岩壁の間に、小さく赤い塗装と石仏を見つけることができます。
この石仏は市の指定文化財の神変大菩薩像(しんぺんだいぼさつぞう)で、甘南備寺(かんなみじ)が江の川の船の安全のために岩の上に設置した役行者(えんのぎょうじゃ)です。役行者は飛鳥時代の呪術者で様々な伝説を残していると言われています。役行者があるということは、この辺りも修験道だったとも考えられています。
岩の上にあるため、なかなかお目にかかることはなかったんですが、実は初めて見ました。
川越第3樋門
河川管理道をさらに戻ると川越第3樋門があります。樋門は大きな川に注ぐ支流の川の逆流を防止するためのゲートがついた施設のことを言います。
甘南備寺
下流に進み、対岸を見ると甘南備寺が見えます。この甘南備寺が建っている場所は、明治5年の浜田地震の影響で山の上の方にあった甘南備寺の井戸に水が無くなってしまったため、移転してきた場所です。甘南備寺は天平18年(746年)に創建された歴史のある寺院で、市内では唯一の国の重要文化財の工芸品を所持(平安時代に作成された大鎧の残闕、都会風)しています。
川越第2樋門
まだまだゴールは見えませんが、川越第2樋門が見えます。樋門には樋門操作員がいて、江の川の水位が上がった時にあの場所で樋門の操作を行います。
川越第1樋門
もう少し下流に行くと、川越第1樋門があります。樋門の近くで水位が上がったことを想像してみましたが、だいぶ危険なことがわかります。樋門の操作員さんには頭が下がる思いで、尊敬しかありません。
川越大橋
河川管理道を川越大橋まで戻りました。川越大橋は平成19年に現在の橋が完成し、全長212メートル、幅員9.75メートルのラーメン箱桁橋で、以前の橋よりも約7.6メートル高くなりました。ゴールまでもう少しです。
ゴール
ゴール!川越地域コミュニティ交流センターに到着しました。
桜江町を大きく分けた時の「川越地区」と呼ばれる地域は、川越、大貫、田津、鹿賀、坂本を合わせた江の川上流の場所です。
今日歩いた渡田や渡は現在の住所表記だと川越になります。その川越の川向こうの対岸の大貫や坂本も大きくわけた地域では川越と呼ばれます。
もう、よくわからなくなってます。
今回は8,500歩を歩きました。暑かったり、雨が降ったり、アブが異常に多かったり、結構疲れました。
次回はリクエストがあれば、そのまちを歩きたいと思います。
目指せ!10,000歩のまち歩き!
桜江町川越まち歩きマップ(約8,500歩)