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遺跡発掘「岩瀧寺跡」調査情報4(平成30年11月1日)
遺跡「岩瀧寺跡」発掘調査情報4(H30.11.1)
発掘調査が始まってから4ヵ月が経ちました。最近、幕末の頃の絵図の情報提供がありました。調査にも活用しています。
文政2年(1819年)整地層を剥いでみると
現在、A区では手作業で掘って文政2年(1819年)整地層を剥いで遺構面を出している途中です。
伝善堂跡の見直し
伝禅堂跡をさらに掘り下げ、周りの土層を見直し、幕末の絵図と比べた結果、大きな石の石組みと小さな石の石組み、一連の建物であったことが判明しました。
また、この建物跡、元々あった小さな建物跡を改修し、大きな建物に作り替えたものであることもわかりました。
謎のカメ(甕)の正体
庫裏(くり)の茶室跡の裏にカメ(甕)が埋められていました。このカメ(甕)は逆さまに埋められていて、その下からは別のカメ(甕)が、口を上向きにした状態で出土しました。
つまり、合わせ口のカメ(甕)2つが、埋められていたのです。さらに、よく見ると上のカメ(甕)の底には小さな穴が開けられていました。
このことから、これは水琴窟ではないかと考えています。
写真ではカメ(甕)は取り除いてあります。
水琴窟はカメ(甕)の中で水の音が反響してきれいな音が出る装置です。
(続)権現堂への参道の正体
権現堂への古い参道と思われていた石組みが後世の整地層上に構築されていることがわかりました。幕末の絵図にはこの石組み描かれてないことから、この石組みは幕末以降に作られたものと考えられます。
何の穴?
岩盤を掘り込むように、「真実の口」のような、穴が開いています。
堅い岩盤に何かの目的をもって掘られたものだと思われます。柱の跡でしょうか。
ちなみに嘘つきが手をいれても噛まれません。
焼け跡の正体
元々本堂があった場所で文政2年の整地層の下から炭を多く含んだ黒い土が出ていたので、気になっていました。
そこを掘ったところ、薄く広がった炭の堆積層であることがわかりました。この土層からは、寛永通宝、鉄の釘、陶磁器の破片が少量出てきました。
炭の堆積は少規模で遺物も少ないことから、、大規模な火事の跡ではなさそうです。ゴミなどを燃やした野焼きの跡くらいでしょうか…。
B区も表土を剥がしています
幕末の絵図ではB区には何も記載されていません。ここは秘密の場所のままです。
はい、出た~。謎の石組み
発掘あるあるだとは思いますが、出ました謎の石組み。
調査員はこれをさらに掘り進めて、この石組みが大きい規模であれば祠の跡、小さい規模であればお墓の跡ではないかと今のところ考えているようです。
調査員メモ
今後は幕末の絵図との照合と文政2年以前の遺構をさらに詳しく調査する作業にかかります。