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遺跡発掘「岩瀧寺跡」調査情報(平成30年7月1日)
遺跡「岩瀧寺跡」発掘調査情報(H30.7.1)
波積町にある遺跡「岩瀧寺跡」の発掘調査を行っています。
この場所は、これからダム用地になるため、調査は記録保存を目的としています。
「岩瀧寺跡」の発掘場所はおおまかに3つに分かれています。
このA区では、茂っていた木を伐採して、周辺の石垣や庭園などの発掘の作業をしています。
ここは本堂があった場所です。
交錯する4つの時代の石垣
南側には作られた時代が混在した石垣がありました。
右側の石垣は方形の石を縦方向に積むことが多い傾向にあります。文政2年(1819年)ころに積まれたものと考えられます。
左側の石垣は自然の石を割っただけの石を斜め方向に積まれているのが特徴です。明治41年(1908年)ころに積まれたものと考えられます。
右側の石垣は明治41年(1908年)ころに積まれたものです。
左側の石垣は昭和19年(1944年)の豪雨災害の復旧で積まれたものです。四角の石が規則的に並べられています。
この石垣は上段と下段で異なった積み方になっているため積まれた時代が違うことがわかります。
上の段は文政2年(1819年)に積まれたものです。
下の段は、自然の石を横に置いた平積みが多くみられます。元々、下の段の高さだった土地を文政2年(1819年)のころに現在の高さに上げたことがわかります。
下の石垣ができた年代はこれからの発掘作業で判明します。
庭園と灯篭
北側法面を発掘すると、灯篭が4基ありました。そのほかにも人工的な上部が平らな石があります。
法面の下には池があったことがわかっているため、ここには観賞用の庭園があったと考えられます。
灯篭の1つには文化11年(1814年)の文字が刻まれていました。
権現堂への参道
北東側の石積みを調査したところ、一つ一つ足を乗せる部分があり、石垣ではなくて階段であることがわかりました。
この上には権現堂があったため、権現堂へ行くための道があったと考えています。