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明治22年4月1日 本明村・上有福村・下有福村・宇野村と、大金村が合併し有福村となりました。
昭和30年4月15日、国府町に編入。昭和31年8月1日 国府町の一部(本明・上有福地区)が江津市に編入、現在に至ります。
本町は江津市の南西部に位置し、東に跡市町、南側に浜田市金城町、西に浜田市下有福町、北側に千田町と接する。
7.220平方キロメートル(江津市総面積268.51平方キロメートルの約2.7%を占めている)
内訳 有福温泉町 2.625平方キロメートル、有福温泉等本明 4.594平方キロメートル
1360年以上前、聖徳太子の時代に(650年頃)天竺より入朝した法道仙人が発見したと伝えられ、古来より名湯が湧く福有りの里。有福温泉の名前の由来といわれています。
滾々と湧き出る無色透明な単純アルカリ泉は透きとるような美しい美肌を作る「美人の湯」として有名です。
3つの外湯(公衆浴場)と6軒の旅館があり、貸切露天風呂も楽しめます。
町内で有機栽培の大豆を原料とした手作り「福屋味噌」など
善太郎餅(草餅)・有福飴(米飴)など
昭和42年6月、広島県原爆障害対策協議会(以下「広島原対協」)が、厚生省の斡旋により日本自転車振興会の公益事業補助金の交付を受け、広島市・島根県、江津市などの援助により「有福温泉荘」を開設しました。原爆被爆者有福温泉療養研究所運営協議会(会長:江津市長)が運営を受託しました。
開設以来、延べ83万人が利用したが、被爆者の高齢化などで利用が減少のうえ、設備の老朽化で改修費もかさみ利用者だけの利用料だけでは賄いきれず積立金の取り崩し・補助金受け取りで存続させてきました。
しかし、原対協も運営が厳しく継続は困難に至り、平成25年12月末で閉鎖しました。
地域に甚大な被害を及ぼした平成25年8月水害と今次の閉鎖は、地域経済・雇用、観光面に目立つ悪影響が想定され、「有福温泉」の賑わいが急速に減退する恐れがあります。
施設からの分湯料がなくなり、浜田市江津市旧有福村有財産共同管理組合の収入減よる入湯料金等への影響など影響は多方面へ及びます。
被爆者と地元児童の平和学習や地域住民との交流の機会がなくなり惜しむ声とともに、有福温泉への賑わいに影響を及ぼし、地域が萎んでしまうことが懸念されます。
昭和42年、地域の有志により「有福温泉観光神楽団」して設立・活動し、現在の「有福温泉神楽団」に至ります。
昭和58年7月23日の豪雨災害により町内は被災。賑わいを取り戻すため、翌年より週末に定期公演開始。当初は「落合商店2階」そして「老人集いの家」を「湯の町演芸場」として石見神楽上演しました。
平成23年4月、「有福温泉・湯の町神楽殿」新装オープンしました。現在の団員数は約20名。また、子供神楽も昭和59年より活動開始し、伝統芸能に親しみ継承に貢献しています。
金銅観音菩薩像
福泉寺文書
本明城跡
上有福のイチョウ
福田八幡宮のイチイガシ及び自然林
植物の垂直分布がみられる本明山を仰ぎ、敬川水系の加志岐川・本明川・湯路川などが縦横に、山紫水明の穏やかな里山・豊かな自然に恵まれた「懐かしの国石見」の原風景が住民や訪れる人々にやさしいところです。
「泉質の良さ」・「美肌の湯」として、古より3つの外湯は古今東西多くの湯治客に親しまれ、情緒あふれるレトロな温泉街と相まって老若男女が集うスポットがあります。
温泉街の一角には「恋人の聖地」のモニュメントもあります。
海浜公園(海水浴場・水族館)に近接し、石見三湯の美又温泉・旭温泉ともにスキー場ほか四季折々の交流が可能な地域です。
石見神楽の常設演舞場(湯のまち神楽殿)があり、毎週末定期公演は、宿泊客や神楽ファンに人気があり、伝統芸能の興隆・継承にも重要な役割を担っています。
近年、重要な地域資源である、地熱・小水力等の再生可能エネルギー導入・推進による地域づくりの取り組み展開中です。
町内を構成する地域・地区間において、歴史・立地環境・生業などで価値観・優先課題等について、文化・意識の多種多様化が見られます。この経緯・特質を尊重し活かした、まちづくり計画・運営が最前提となります。
原爆療養所閉鎖、今次の水害。平成22年の大火災害等と相まって老朽した空き家も多くなり、食堂・商店も少なくなり観光地としての景観を損ねているだけでなく、入湯客等来訪者の対応空間の減少が著しい状況です。
被災等により食堂等の廃業による「コミュニケーションの場」喪失により、「高齢者の集う場」・「住民相互・湯治客等の交流・情報交換」が不活発となり、諸活動の理解促進に悪影響が出る恐れがあります。