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櫨匂威鎧残闕(重要文化財)

掲載日:2022年12月19日更新
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重要文化財 櫨匂威鎧残闕(はじにおいおどしよろいざんけつ)

江津市桜江町坂本にある宝生山(ほうしょうざん)甘南備寺(かんなみじ)が所有している鎧の残闕(一部)と令和3年度に行われた修理について紹介します。

櫨匂威鎧残闕 一括

この鎧は、今から800年以上前の平安時代後期のものと言われていますが、地域の人々によって『黄櫨匂威大鎧残闕(はじにおいおどしおおよろいざんけつ)』と呼ばれ、現在まで親しまれています。

『櫨匂(はじにおい)』とは、ハゼノキが黄色から赤色へと紅葉する色合いをグラデーション(匂)で表していることを示しています。残存する威糸(おどしいと)の色からは、黄色と橙色、赤色へと紅葉する色によるグラデーションを主として、所々に色を散らした様子(敷目)がわかります。いずれの威糸も鮮やかな色を今でも留めており、この鎧が、戦いで用いる武具でありながら、とても豪壮華麗であったことが想像されます。また、『威(おどし)』とは、鎧の構造のことで、甲冑を構成する部材である札(さね)の孔に組緒や韋緒(かわお)を上下左右に通して、綴じ合わせて作られていることを表す言葉です。この鎧の札(さね)には、分厚くて大振りの三つ目札(通常の小札より幅が広く、孔が3列に空いている)が用いられていますが、特に前胴は、黒漆塗で鉄札1枚と革札2枚の割でそれぞれ3分の2ずつ重ねて綴じ付けたもので、堅牢さを増しています。この鎧の残闕は、前後の胴の大部分を主として、栴檀板、袖、𩊱等の各一部しか残っていませんが、これらのパーツ全体を通して、本来はいかにも平安時代の大鎧らしい重厚で堅牢な一領であった様子をうかがうことができます。
甘南備寺では、「天正十七年(1589年)丸山城主小笠原長旌(ながあき)は全家重代の宝物たりし源頼家の写経、佐々木高綱の大鎧、陣鈴、陣貝、その他多くの武器を奉納されたり」と伝わっており、当時の城主が武運長久を祈願するために先祖伝来の大鎧を寄進奉納したものとされています。
この鎧については、昭和初め頃に、専門家らによる調査が複数回にわたり行われました。その調査によって、バラバラだった各部材が整理され、残存している威糸の色目や全体の特徴から『黄櫨匂敷目大鎧(はじにおいしきめおおよろい)』と名前がつけられました。平安時代に作られた大鎧で現存する資料は、全国的にも数点しか現存せず、とても貴重です。この鎧は、残闕の状態ではありますが、その貴重さが認められて、島根県の指定を経て昭和41年には『櫨匂威鎧残闕』として国の重要文化財に指定されました。

𩊱(しころ)

𩊱(しころ)

前胴

前胴

ハゼノキが黄色から赤色へと紅葉する色合いがグラデーションになっています。毛引匂威は特殊は手法で組まれた組紐で威されています。

後胴

後胴

四段下がりの草摺は一段欠けているものの、きわめて古い鎧の様式で、平安時代後期に作られたものと言われています。

栴檀板(せんだんのいた)

栴檀の板

大袖と草摺(くさずり)

大袖

大袖

射向けの草摺の蝙蝠付け(いむけのくさずりのこうもりづけ)

蝙蝠付け

鎧の修理とその成果

櫨匂威鎧残闕は、長年の経年劣化による損傷に加えて、近年の地球温暖化の影響で夏場の高気温や高湿度などの急激な環境変化を受けて、鎧残闕の全体に黴が生え、汚れが目立ってきたため、令和3年度の国庫補助事業として、西岡甲房において修理を実施しました。

まず、黒漆塗の札板の表裏両面に発生していた黴は、エタノールを使用して丁寧に除去しました。この作業は、およそ1カ月の間を空けて2度繰り返して行いました。併せて、札板の表面に長年付着していた汚れを精製水で拭ってクリーニングを施すとともに、劣化して損傷が甚だしい部分には、希釈した漆を浸透させ、塗膜を強化しました。ただし、この処置は、札の漆塗膜本来の表情が残る部分にはできる限り手を付けず、必要最低限の範囲に留めました。また、今回、慳貪式(けんどんしき)の蓋を付けた桐製収納箱を新たに作製しました。内部は二段の抽斗式(ひきだししき)として、各抽斗の底に札板残闕の各形状に合わせて切り込んだ板を入れ、その切り込み部分に札板を落とし込んで擦れないように固定しました。
今回の修理作業では、残存している札板の各部材が、鎧のどの部分に該当するのかについて再検討を行い、確認した結果をもとに推定される札板の配置を一部変更しました。このことは、本事業で得られた大きな成果の一つです。また、この鎧は、中世や江戸時代にも大規模な修理を施したり、鎧としての形状を復元するために補作したりするなどの後世の手がほとんど加えられずに保管されていたため、一部ながら残っている各部材が、当初の生ぶな状態で現代まで保存されていることも改めて認識されました。中でもひときわ目をひくのは、赤い色に染められた威糸(絹製組緒)の部分で、鮮やかな赤色は800年以上経ってもほとんど色褪せていません。染料分析によれば、茜(あかね)を用いて染色していることがわかっていますが、その染色技術についての詳細はわかっていません。平安時代の染め色や漆塗膜の艶がいまだによく残っていることは、この鎧がいかに大切に守り伝えられてきたのかを物語っています。

また、この修理には国庫補助などのほか、公益財団法人いづも財団による助成を受けました。

現在、この鎧の残闕は島根県立古代出雲歴史博物館に寄託され、令和4年8月に修理完了記念『櫨匂威鎧残闕と甘南備寺の文化財』で展示が行われました。

残闕部分推定図

残闕部分推定図

作業風景

作業風景

桐箱に配置した状態

収納状況1

収納状況2

収納状況

収納状況3

宝生山甘南備寺

所有者の甘南備寺(かんなみじ)は、江津市桜江町坂本にあり、開基は行基菩薩で聖武天皇の天平18年(746)に創設されました。御本尊は創設時に行基菩薩みずから刻んだと伝わる仏像と仏師定朝が作ったと伝わる仏像(秘仏)2体です。(虚空蔵菩薩像2躯・江津市指定文化財)

昔は渡りの山と呼ばれる甘南備寺山(市指定文化財)の山頂台地から山腹にかけて諸伽藍の軒が建ち並んでいましたが、元亀年間に大火により焼失し、それまで伝わっていた文書・什器・財宝等が焼失しました。その後、堂塔が復活し、寺運も興隆に向かっていましたが、明治5年(1872)の浜田地震により山中での飲料が枯渇したことから、明治17年(1884)に山ふもとの現在地に移転しました。

甘南備寺

甘南備寺には櫨匂威鎧残闕や虚空蔵菩薩像のほかにも江津市指定文化財の仁王像、鐃、紙本墨書古写経、古文書などがあります。

また、甘南備寺山麓の大岩壁には江の川を見下ろすように神変大菩薩像(市指定文化財)も設置されています。

推定復元による模造鎧

模造鎧

 

推定で復元された模造鎧は今井美術館で展示されています。​