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遺跡発掘「本驛遺跡」調査情報
本驛遺跡発掘調査
当記事の内容は社会教育課による遺跡調査の概要です。
社会教育課では令和6年12月から令和7年4月まで二宮町にある本驛遺跡を発掘調査しました。
遺跡のある場所は津宮小学校の隣接地で、学校建設に関係する開発地なったことから、調査を必要としました。
プロローグ:気温37度!意識が遠のく中、遺跡が出た!
この場所はもともと遺跡があるかないか分かりませんでした。そのため、事前に試掘調査をしましたが、この時、1m80cm以上掘ったあたりから、器のかけらが大量に出てきました。静寂の中、7月の太陽光線は激しく作業員さんたちを苦しめました。調査では途中からテントをはり、日陰を作りました。今後は試掘の時期について考えなければなりません(迫真)。
試掘により、遺跡の所在が明らかになり、時期を改めて本調査することが決定しました。
調査地は津宮小学校の隣
中央に見えるのが津宮小学校で、その手前が調査地です。
調査区は広いため、A・B・Cの三分割しました
極寒!氷点下での調査
本調査の時期は12月からになりました。喉元過ぎれば熱さを忘れるとはまさにこのことで、寒さの余り、過酷な夏の試掘が恋しく思われました。
逞しい重機
本調査ではまず、重機により厚く堆積した飛砂を取り除いていきました。白い砂の上の方に江戸時代の遺物が数点ある程度で他には何もありませんでした。
A区の黒い土
白い砂を取り除くと突如として黒っぽい土が全体に現れました。
範囲確認のため、トレンチを掘ってみるとそこにあったのは、、、
黒い土がどこまで広がっているかを調べるために黒い地表からさらに四角い穴(トレンチ)を掘ってみると、黒い土の下にはさらに白い砂が堆積していることが分かりました。トレンチの壁を見てみると、黒い土が四角くなっている箇所があります。柱の穴だと思われます!
柱の穴が他にないかを探るため、A区全体の黒い土を取り除いてみます。
黒い土には遺物がたくさん。中には古銭もあり。
黒い土を取り除いていきます。土中には平安時代終わり頃の土師器皿が大量に出土します。これらのほかには、同時代の白磁や古銭、褐釉壺がありました。
出土した古銭
古銭はよく見ると「元豊通寶」の文字が判読できます。元豊通寶(1078年)は中国が当時北宋であった頃につくられたもののようです。
黒い土を剥ぐと土坑が発見された!
遺物を回収しつつ、掘削を進めると多くの土坑(柱や柵等の穴)を発見しました。
ピットの中には遺物
土坑の中には遺物が入っている場合がいくつかあり、土坑の時期の参考になりそうです。
A区の調査は終わらない
A区で土坑を確認しましたが、中央付近は赤い土ではない、白と黒が混じったような土があります。これらを掘削しなければなりません(涙)
出土する遺物
掘ってみると深い溝になっていました。この土はいろんな土が混ざっており、造成土または自然の崩落土かもしれない土でした。掘っていくと、この土の中から奈良時代頃の遺物が大量に出土します。その光景は掘ると連続で現れる芋のようです。
A区は谷だった
A区を完掘してみると、谷状の地形になりました。ここを造成して暮らしていたのでしょうか。
B区に遺構なし!
B区は傾斜がA区よりきついせいか、遺構がありませんでした。包含層は存在し、上から流入したものだと考えられます。
B区の土層
B区で掘ったトレンチを見てみると、オレンジ色の地山(遺跡がない土)の上に黒っぽい砂の堆積していることが分かります。
B区の土器溜り
先ほどの黒っぽい土を掘ってみると古墳時代~平安時代頃の遺物が出土します。
本驛遺跡から出土した遺物について
発掘調査では遺物が大量に出ました!
遺物の年代は古墳時代から平安時代頃と考えられ、平安時代を中心としています。
平安頃の遺物は土師器皿と白磁が高い頻度で出土しました。白磁は大陸から持ち込まれたもので北宋の時代です。
墨書土器
墨書土器はなんて書いてあるかわかりません(汗)。墨書土器は文字のある土器で、当時の読み書きできる人は限られるため、貴重な資料です。寺院や役所関係でしょうか。
古代の瓦
瓦も出ています。裏面には布目がはっきりとわかります。瓦を葺く建物は限らており、これも寺院や役所が思い浮かびます。
変な模様
写真の須恵器はB区で出土しましたが、何の器種のどこでしょうか。今のところ不明です。
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A区で出土した青磁と思われる遺物です。初期の高麗青磁でしょうか??
褐釉壺
褐釉壺の破片はA区で数点確認されました。表面には葉っぱのような模様があります。これも大陸から持ち込まれたものと考えられます。
現在までの状況で考えられる遺跡の様相
奈良から平安時代
墨書土器は当時としては限定的な存在である読み書き可能な人材の存在を示唆しています。加えて、古代瓦が出土しています。付近に寺院や役所が所在し、そこで使用されたことが想定されます。
本驛遺跡周辺には、半田浜西遺跡、宮倉遺跡、半田浜遺跡があり、二宮・都野津が周辺地域の行政もしくは信仰の中心地として存在していたと考えられます。
古墳時代
耳環や高坏などは古墳の副葬品の可能性が高く、付近に古墳の存在した可能性が高いと考えられます。
A区の古代の造成(流土の可能性もあり)について
当地はもともと谷地形で、居住には向かない土地であったと考えられ、奈良時代頃に造成を行うことにより、宅地にしたかもしれません。
現地調査の終了
寒さが和らぎ、黄砂を伴う温かい風が調査地に吹き込むなか、調査は終わりを迎えました。これから、出土した遺物の整理、報告書の作成業務に入ります。社会教育課の春はまだ先です。
調査の概要
【遺跡】本驛遺跡(県遺跡番号D344)
【期 間】令和6年12月10日~令和7年4月11日(終了)
【経 緯】 本調査は、仮称西部統合小学校建設にかかる試掘調査によって遺跡を確認したため、遺跡の記録保存を目的として行った。
【遺構】溝、土坑、建物跡
【遺物】土師器、須恵器、瓦、白磁、越州窯青磁、初期高麗青磁?、褐釉壺、古銭、土錘、墨書土器、耳環、鉄鍋
※掲載写真は元データに加工を施しています。