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地域住民と行政及び自治会をはじめとする各種団体との協働により、少子高齢化社会や地方分権の時代に対応するため、公民館活動と連合自治会活動を包含した地域コミュニティを確立します。
「誰もが安心快適に暮らせるまちづくり」を推進することを目的とします。
青山地域6-1,2,3組は圧倒的に人口が多く、高齢化率も20~30%と低い状況です。
中山間地の神村、飯田井地域は人口が非常に少なく高齢化率も高く4自治会が50%を超えます。
今後ますます少子高齢化が進んでくると考えられます。
千年以上も昔、源順の「和名鈔」に石見の国那賀郡都濃郷とあるのを初見とし、また1300年の昔柿本人麻呂の作る万葉歌にある「角のさと」の本郷が二宮であったといわれ、明治の初期までは、飯田、神村、神主、羽代の四村でありました。
約千年前の「万寿の地震」があり、ほぼ現在のこの地方の原型ができたと言われています。
さらに、江戸時代の「安永の地震」さらに現状に近づき、明治五年の「浜田地震」で現在の地形になったとされます。
古道については、山道がほとんどです。平地の周囲の山裾を通る道で、飯田から恵良、宮ノ谷、伝仏、神村奥山、島の星、江川裾の金田へ通じる半間ばかりの往還が作られていたそうです。(一部万葉道とでもいわれる道)
江戸期には、都野津の大年神社の山手から江津高校の前の道、津宮小学校に下を通って、神主の赤羽根、昔の水尻川橋に出て旧二宮小学校から山道に入り、多鳩神社を右に見て千田を通り跡市八幡宮にでる主道がありました。(跡市には浜田藩の代官所があった)
また、水尻川の馬渡を渡って、青山の山手川の裾を通り敬川の町中を通り佐名目の峠を越えて波子に至る通称「浜大道」も開けていました。
明治21年、市町村合併で神村、神主、羽代が合併して二宮村となりました。
昭和29年に、江津市二宮町となり飯田、恵良、宮ノ谷の地名は消えました。
現在では、海岸のもっとも近くに産業道、この道路に沿うようにJR山陰本線、続いて戦後国道9号が開通しました。
さらに、昭和60年代になると、県道皆井田江津線の新道が跡市に向かって設置され、この道の新二宮橋付近より飯田・高野山山麓を通って下有福に至る那賀グリーンラインも開通しました。
さらに、町の中央部に高架で作られた山陰道自動車道が設置されました。
道路状況は改善されたものの、二宮の飯田、神村、羽代の山間部は高齢化、過疎化が進み、耕作放棄地、空家が多くなっています。
青山地域は若年層、壮年層の流入が多くあり、高齢化率は低い状況です。
「二宮の歴史と昔話」 山藤朝之、二宮村史
二宮の里は古来、神領をともなった地で、山の幸、海の幸に恵まれ、農作、山作、林業、稲作に恵まれた地でした。
現在では、稲作と数軒の石州瓦産業などで、目立った産業は少なくなりました。
平成20年には、島根県企業局による高野山の風力発電9基(総発電能力20、700キロワット)、桃山にもソーラー発電が建設され、さらに、旧小川窯業所の跡地にメガソーラー発電所が建設予定となっています。
教育施設としては、津宮幼稚園、津宮小学校、青陵中学校、青山の高台にポリテクカレッジ島根(島根職業能力開発短期大学校)があります。さらに、浜田市に県立大学があります。
特別老人養護施設「ミレ青山」が建設されています。
隣の都野津町には江津高等学校、のぞみ保育園があります。
大規模商業施設は、国道9号に沿って、ジュンテンドー、キヌヤ、しまむら、パチンコ店など。その他国道9号沿いに飲食店、ガソリンスタンド、自動車関連の小規模な店舗が集中しています。
大宝律令(701年)により、石見の国那賀郡庁の仮庁舎がこの里の恵良に置かれ、短い間ではありましたが柿本人麻呂が石見の国の役人として恵良の仮庁舎で政務に務めました。
その間に、この里の依羅娘子(恵良媛)をめとったとされています。
この地で詠んだ相聞挽歌などの長短13首の万葉歌はあまりにも有名です。
町内の二宮交流館と君寺には、二宮探宝会建立の依羅娘子の歌碑が建てられています。
近隣の町にも人麻呂の歌碑が建立されており、近年、万葉ロマンの里として柿本人麻呂関連の各種イベントが行われています。
町内の神社仏閣は多くあります。
特に、多鳩神社の祭神は積羽八重代主命(別名エビス様)であり石見の国二宮と朝野で仰がれ、かつては末社が25社ありました。
明治6年、県社に列せられました。
軒下に吊るされた神饌台には八咫烏の伝承があり、この多鳩神社では2014年に八咫烏をシンボルとするワールドカップ日本代表の必勝祈願が行われました。